後藤直光は堂宮彫刻師であり、浅子周慶は仏師です。
今は彫刻師としてひとまとめにされますが、江戸時代までは、寺社の彫刻師と仏さまを彫る仏師は、違う仕事でした。
明治以降、寺社建立の気運も下火になり、堂宮彫刻師の仕事は少なくなります。また政府の廃仏毀釈により、仏師の仕事も下火になります。
これらの時代の変化により、方向転換をし、時代時代の名人は山車や神輿の彫刻を手がけるようになります。
戦後は、高村光雲のように西洋彫刻に転換してしまう方もおりました。
後藤直光の系譜
後藤直光の祖は左甚五郎と伝えられていますが、甚五郎伝説は何代にもそれも全国各地に伝承があり、言わば名人の称号としてとらえるべきです。
後藤流は後藤本流を継ぐ茂右衛門を名乗る名人と、その支流(小松家・長坂家・磯辺家・常州後藤家・房州後藤家など)で構成されています。
三代後藤家本流茂右衛門、後藤正常が晩年76才に記した系図が、「彫工左氏後藤氏世系図(ちょうこうひだりしごとうしせけいず)」(文化7年 成立/明治21年 写)です。
これは、左甚五郎から始まり、後藤本流や後藤支流の系図はもちろん、江戸彫工御三家と言われた島村家や石川家も記載されています(漏れや記載ミスもあり、後に加筆あり)。
ここには後藤直光の名はありませんでしたが、妙典のマツキヨに彫刻と一緒に展示されている系図には、後藤直光の祖は、「後藤直義 下総行徳住人 正義門人 初代後藤茂助」と記載があります。
※画像はクリックすると拡大して見ることができます。
「彫工左氏後藤氏世系図」を見ると、後藤支流の磯辺家に、後藤猶之助藤原正義(ごとうなおのすけふじわらのまさよし)という人がいます。
磯辺家は現在の栃木県鹿沼のぶっつけ屋台祭にたくさんの彫刻を残していますが、この正義は、本所法恩寺橋(注)(今の東京都墨田区)の住となっており、行徳に近い所で彫刻の仕事をしていたようです。
初代後藤茂助は、おそらくこの正義に師事し、年季明け後(独立後)、師匠の字をいただいて後藤直義と名のるのを許されたのだと思います。
後藤茂助は、初代直義、二代直知、三代でようやく直光を名乗るようになります。
代々寺社の堂宮彫刻師として営みますが、後に時代の変遷と共に神輿製作に着手し、多くの弟子と職人を育て、大正末期〜昭和戦前戦後と、切れ味のよい彫刻を生かし、質のよい神輿をたくさん製作しました。
(注)「法恩寺橋」を「報恩寺橋」とする資料もあるようですが、現在の地名に基づき「法恩寺橋」と表記しています。
代々の詳細は不明
後藤直光の何代目が誰で、何を名乗り、いつからいつまで生きていたかは、定かではありません。
彫刻の裏に刻銘を残すようになったのは、江戸後期において寺社建立に後藤家が隆盛を博してからであって、元の島村流隆盛の時代は、一職人が名前を刻むなどご法度でした(棟札の墨書きのみ、それも本殿や本堂に奉納し一般拝見不可・修復時に稀に出てくる)。
また一般に刻銘は、一生その名前で刻んだわけではなく、製作年代によりいっぱしの職人なのか、彫工集団をまとめる親方かで刻む字が違うので厄介です。
彫工集団は、親方が粗彫をし弟子が仕上げるのが一般的です。
なので、後藤猶之助藤原正義の下で腕を磨いていた時は、刻銘は師匠の名前のみです。
年季明け後は、自分が親方になり、何人か弟子を雇い寺社の仕事を始めているはずですが、以降自分の名を刻銘する事ができます。
この際に後藤茂助なのか、後藤直義、子直知なのか、はたまた違う刻銘を残す場合もあるようです(この名前の方が格好いいからや、やっぱりこれにしようなど)。
つまり、同一人物であっても刻銘が違う場合もあり、各代目の本名はわかりません。
茂助と直光はほぼ同じです。
また時代によって、直義、直知、置知(直知と同一人物で、漢字の旧字新字の違い、長年の風化から、直知が置知に見えたのかなと思います)、茂吉、三吉とあるのも事実です。製作年代でひも解くしかありません。
現在は神輿師後藤直光の方が一般的ですが、堂宮彫刻では茂助の方が一般的だったのではないでしょうか。
神輿製作が盛んになるに従って、家名として直光を推していったのだと思います。(千葉県旭市 志ん一さん)
当サイトオープン以来、志ん一さんには、神輿や彫刻についてたくさんの情報をお寄せいただいております。
その中から今回は、後藤直光の歴史に関する情報と考察をまとめて掲載させていただきました。
(志ん一さんの1回目のご投稿はこちら、2回目はこちらをご覧ください。)
後藤直光の系譜については、後藤本流やら支流やらの話があり少し複雑なので、熊本大学の伊東龍一教授が東京工業大学の助手だった1990年にまとめた論文の中にある以下の系図を見ると、イメージしやすいかと思います。「彫工左氏後藤氏世系図」がわかりやすく整理されています。
※クリックすると拡大して見ることができます。
志ん一さんのお話にあるように、後藤直光の名はこちらの後藤家の系図にはありません。
しかし「妙典のマツキヨに展示されている系図」と合わせて推察すると、後藤家支流の磯辺家にいた後藤正義という人が初代後藤直光の師であり、そこから後藤直光が始まったのではないかということです。
その「妙典のマツキヨに展示されている系図」とは、これ。
正確にはマツモトキヨシの店ではなく、店の前。妙典駅前の妙典センタービル1階のエスカレーター脇に展示されています。
ビル名よりマツキヨと言った方がわかりやすいと思いますので、あえてそのまま使わせていただいています。
そこに神輿と並んで彫刻が展示されているガラスケースがありますが、その下段右にあります。
説明もなく展示されているので、私はこれを見ただけでは意味がよくわかりませんでしたが、志ん一さんのお話を伺って、やっと理解できました。
今回の推察の根拠となる貴重な資料です。
興味のある方は、ぜひじっくりとご覧になってみてくださいね。(2021/8/12 WG)
この投稿後に、志ん一さんから新たな情報が寄せられました。
こちらも併せてご覧ください。(2021/08/26 WG)
下の各カテゴリをクリックすると、 同じカテゴリのすべてのブログ記事を閲覧できます。
また、その下のボタンをクリックすると記事のシェアができます。
↓↓↓
コメントをお書きください