7月17日(日)に下妙典の龍玉宮で龍神祭が行われました。
この写真を見て、これまでに当ブログでご紹介してきた祭礼とは大きく異なる点があることにお気づきでしょうか?
ヒントは、「人」です。
もうおわかりですね。
これまでにご紹介した祭礼は、すべて「神職」が神事を行っておりましたが、こちらは「僧侶」が仏事を行っています。
鳥居があるので神社だと思いますが…これは一体どういうことなのでしょうか?
謎を解くために、まずはこの龍玉宮の歴史から見てみましょう。
境内には由来が描かれた石碑があります。
碑文をざっくりわかりやすくまとめると。
江戸時代の下妙典村は、葦に覆われた、海水が流れ込む原野と干潟だった。
米を作る田畑はほとんどなく、村人たちは干潟で塩づくりをして徳川幕府に塩で年貢を納めていた。
しかし土地柄、津波や洪水などの水害に見舞われることが多く、村人たちは海(水)の神として龍神を祀り、宝暦2年(注)にこの龍玉宮を建立した。
(注)碑文には「宝歴」と記されていますが、「宝暦」のことだと思われます。宝暦2年は1752年です。
行徳街道沿いの神社に水神さまがたくさん祀られていることは、こちらの記事で紹介しましたが、水神さまは一般的には川など淡水の神様を指すようです。旧江戸川と関係が深そうですね。
一方「海水が流れ込む原野と干潟」だった妙典は、同じ水の神様でも川の神様ではなく、大海に住み雨を司る神として信仰を集めていた龍神に祈願したようです。
神社には、次の写真のような説明書きも掲示されています。
これによると、昔、海で働く男たちの安全を祈願し、毎朝小石を積んで手を合わせる若い女性がいたそうで、その話に感銘を受けた妙典村の有力者が龍神の石碑を建てたのが由来だとか。
なぜ「八大龍王」を祀ったのかというと、当時の妙典村には日蓮宗の信徒しか住んでいなかったから、と書かれています。
これらは古くから清寿寺に伝わる話だそうですが、「若い女性」や「村の有力者」の話は、石碑に記されている由来とは少しニュアンスが異なりますね。若干昔話的な感じもしますが、そこは言い伝えあるあるですね。
一口に「龍神」といっても、「九頭龍大神」や「青龍」などさまざまな龍神がいるとされていますが、そのほとんどは神社で祀られている神様なのに対し、「八大龍王」は仏教の神様とされ、法華経にも登場するようです。
江戸時代の妙典村の村民は、全員が日蓮宗の信徒だったといわれていますので、龍神の中でも法華経の守護神である「八大龍王」を祀り、津波や洪水が起こらないように祈願したのでしょうね。
とはいえこの龍玉宮は、元は一般の人が建てた小さな石碑にすぎず、当地では、神様として祀るべきか仏様として祀るべきかわからないまま年月を重ねてきたそうです。
そこで自治会(妙典三丁目自治会)が主体となって地域で守ることとし、平成18年から清寿寺のご住職に加持祈祷をお願いして今回のような龍神祭を行っているそうです。
神社境内をぐるりと囲む赤い幟旗が目を引きますが、これは地元の人たちが毎年新しく奉納しているものだそうです。
さて、概要の説明が長くなりました。
ここからは当日の様子をお伝えします。
コロナ禍の中、今年は3年ぶりに幟旗奉納者を招いて龍神祭が行われました。
こちらは祭壇に並べられたお供物です。
お花やろうそく、線香があるのは仏式ならではですね。
この龍玉宮の建立年は「宝暦2年(1752年)6月」なので、本来ならこの祭礼も6月に行うのが正しいようですが、最初に始めたのがたまたま7月だったことから、毎年7月に祭礼を行っているそうです。
7月は海開き・川開きの時期でもありますから、子どもたちの水難除けの意味も込めて行っているのだとか。
龍神は雲を呼び雨を降らせる神力をもっているとされていますが、祭礼当日は、朝雨が降り、その後カンカン照りになることが多いとか。
この日もそうでした。龍神さまのお力でしょうか。
祈祷が始まりました。
日蓮宗の木剣を用いた加持祈祷は、世界三大荒行ともいわれる100日間の過酷な修行を修めた僧のみが行えるものです。
清寿寺のご住職は、この荒行を4回も修められたそうで、一層の重みを感じます。
木剣加持祈祷は、これまでにも取材で何度か拝見したことがありますが、鳥居の前でというのは初めて。
まさに神仏習合を生で見た気がしました。
関係者の皆さま、貴重な機会をいただきありがとうございました。
追記:こちらの記事では、行徳の龍神さまをまとめて紹介しております。併せてご覧ください。
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