神社 |
神明社豊受太神宮 |
地域 | 千葉県市川市 本行徳(一丁目、二丁目、三丁目、四丁目)、本塩 |
周期 | 3年に一度 |
日程 | 祭礼日(10月15・16日)前の土・日 |
次回 |
2026年 |
江戸時代に行徳の中心地だった本行徳一丁目、二丁目、三丁目、四丁目と本塩の5つの町の3年に一度の大祭です。
(本行徳一丁目、二丁目、三丁目、四丁目は旧・住居表示です。現在は合わせて「本行徳」になり、これらの住居表示は存在しません。自治会名としては今も使われています。)
5つの町共有の神輿を、各町が担ぎつないでいきます。
スタートは、「宮元」と呼ばれる五ヶ町の総鎮守、神明社豊受太神宮(本行徳1丁目)。
本祭りの日の早朝4時。暗闇の中、神社の御神体を神輿に遷し(御霊遷し)、その後、白丁(はくちょう)に担がれ本行徳の隣町である下新宿の稲荷神社にあいさつをしにいきます(下新宿渡御)。
宮元に戻ると、担ぎ手たちによる町内渡御が始まります。本行徳一丁目から二丁目、三丁目、四丁目、本塩と順番に神輿を担ぎつないでいきます。
本塩の渡御が終わると、神社に宮入りしますが、スタートの宮元ではなく、本塩の豊受神社に納めます。
そこで着興の儀を行った後、静かに宮元に戻り、ご神体を神輿から神社に還し(御霊納め)、還御の儀を行います。
神輿を蔵に納め、手打ち式をもって祭りが終わります。
このように昔から続くしきたりに基づいた神事が多いのが五ヶ町の祭りです。
江戸時代から続く行徳で最も歴史ある祭りとされています。
本行徳(ほんぎょうとく):行徳の元の場所。中心地。
本塩(ほんしお):住居表示変更(昭和53年)で生まれた町名。元の地名は本行徳塩焼町。
地元では「新田」と呼ぶ人も多いです。
※下新宿(しもしんしゅく):江戸時代、渡し船で行徳に来た旅人が泊まった旅籠がありました。
元の本行徳に比べて新しい宿。
※本行徳二丁目には神社がありません。
五ヶ町の神輿
製作者 |
浅子周慶 |
製作年 |
大正13年 |
台輪寸法 | 五尺七寸 |
●行徳で一番大きい神輿
五ヶ町共有の神輿は、台座1m70㎝、重さ約480㎏。
それを長さ5m40㎝の台棒2本で支えます。
その大きさで、横棒がないため、左右のバランスをとり水平に保ちながら揉むのは難しいとされています。
●製作は浅子周慶
五ヶ町の最初の神輿は、今よりかなり小さい白木造りの神輿だったと伝えられています。
今の神輿は2基目の神輿とされ、大正13年に14代浅子周慶によって作られました。
現在の形状に大修理されたのは昭和31年で、手掛けたのは15代浅子周慶です。
一丁目子ども神輿(旧)
製作者 |
中台祐信 |
製作年 |
昭和48年 |
台輪寸法 | 二尺三寸 |
一丁目子ども神輿としては二代目の神輿です。
初代は昭和31年の五ヶ町の神輿大修理の後、浅子周慶により製作されましたが、焼失しました。
大人神輿の大きさですが、初代の頃より、担ぎ棒に横棒を入れて、小学校高学年や中学生の子どもたちが大人数で担いでいたそうです。
しかし子ども神輿としては重すぎるため、昭和30年代後半以降は、五ヶ町の神輿の揉みの練習用として祭礼前に使われるのみとなっています。
令和2年の祭礼に合わせて中台祐信により修復され、女神輿として登場する予定でしたが、コロナ禍で祭礼が中止となったため、次回への持ち越しとなりました。
令和5年の祭礼では、注目ポイントの一つとなりそうですね。
一丁目子ども神輿
製作者 |
矢吹福松氏 |
製作年 |
昭和40年代 |
台輪寸法 | 一尺七寸(当サイト計測) |
一丁目の矢吹福松氏による手作りの神輿です。矢吹氏は、長年一丁目の音頭取り頭を務められた方。現在はこの神輿が一丁目の子どもたちに担がれています。
焼失した初代子ども神輿の鳳凰や巴紋、鈴がこの神輿に受け継がれています。
二丁目子ども神輿
製作者 |
中台祐信 |
製作年 |
平成10年9月 |
台輪寸法 | 一尺三寸八分 |
長年二丁目の音頭取り頭を務められた鶴ヶ谷健次氏が、子ども神輿のない二丁目のために、各町と相談のうえ自費で購入された神輿です。
五ヶ町の神輿と同じ形で、二丁目の子ども神輿として担がれています。
三丁目子ども神輿
製作者 |
中台祐信 |
製作年 |
|
台輪寸法 | 二尺(当サイト計測) |
四丁目子ども神輿
製作者 |
浅子周慶 |
製作年 |
|
台輪寸法 | 一尺二寸(当サイト計測) |
本塩子ども神輿
製作者 |
萩原保造氏 |
製作年 |
昭和35年 |
台輪寸法 | 一尺六寸五分(当サイト計測) |
本塩(旧塩焼町)の荻原保造氏による手作りの神輿です。
●江戸時代後期には神輿の渡御が行われていた
五ヶ町の神輿は、昭和48~49年にも大修理が行われましたが、その際、神輿の渡御を先導する「守神剣」の台座の金メッキをはがしたところ、職人の隠し文字の筆書きが見つかりました。職人の隠し文字は、注文者に知らせずにこっそりと記すため、それまで明らかになっていなかったそうです。
そこには「文政九年九月吉日 京橋因幡町(注1) 餝(かざり)師勝次郎」を筆頭に、修理した年と職人の名前が順に記されており、文政9年(1826年)には神輿の渡御が行われていたことが裏付けられました。
(注1) 文字が判別しにくいため「京橋同幡町」とする資料もあるようですが、当サイト管理人は当時の京橋の地名から「京橋因幡町」ではないかと推測しています。
「守神剣」台座の隠し文字(画像提供:本行徳総鎮守豊受太神宮奉賛会)
表
中央「文政九丙戌年九月吉日 京橋因幡町(注1)餝師勝次郎」
左右「明治三十四年六月吉日 本行徳四丁目 浅子周慶」
裏
弘化四年(中央)、明治十八年(左)、明治三十四年(右)には餝師の名前、大正十三年(上)には浅子周慶の名前が記されています
五ヶ町の祭りの特徴として、白丁(はくちょう)と呼ばれる役職の人たちの存在があります。各町から8~10名ずつ選出されます。
神輿は担ぎ手たちによって各町を担ぎつながれていきますが、担ぎ手たちは神輿を担いだまま次の町との地境を越えることはできません。
町内の渡御を終えた神輿は地境のところで一旦納められ、それを担いで次の町に渡すのが白丁の役目です(神輿は揉みません)。
神輿が渡されると、神職による神輿渡しの神事が行われます。この神事の後に初めて、次の町の担ぎ手たちが神輿に触れられるようになります。
早朝に下新宿への渡御を行うのも白丁の役目です。
白丁は、重要な神事を担う名誉ある役職とされています。
白丁の衣装は、着物の上にさらしの白衣を着け、紙製の黒い烏帽子(本行徳三丁目は紙製ではなく旧来の烏帽子)を背中にかけ、白足袋を直履きし、手首にはさらしを巻きます。
写真右は担ぎ手の白装束です。
斜めにかけている襷は「木綿襷(ゆうだすき)」といい、神事のときにかける襷です。
麻ひもに船橋大神宮の宮司の書による木綿の布が付いています。
各町の音頭取りと下新宿渡御の白丁の音頭取りがこの襷をかけます。
なぜ下新宿にあいさつに行くの? |
五ヶ町の祭礼では、町内渡御を始める前の早朝に、白丁が神輿を担いで隣町・下新宿の稲荷神社にあいさつをしに行くことが習わしとなっています。 下新宿では、役員が紋付袴姿で提灯をかざしてていねいに神輿を迎えます。 なぜ下新宿に渡御するのかは諸説あるようですが、今となっては、本当のところを知るすべがありません。 ここでは伝えられている説のいくつかを紹介します。
①江戸時代に、下新宿に造り酒屋(現・沢の鶴㈱の前身)がありました。ご主人は、祭りの日ぐらいは丁稚たちを楽しませてあげようと、神輿を作りました。しかし当時の下新宿は戸数も少なかったために、神輿を維持し続けることができず、行徳の中心地として栄えていた隣町の本行徳一丁目に神輿を寄付しました(神輿が大きすぎて揉めなかったため、五ヶ町に貸していたという説もあります)。下新宿への渡御は、その礼を尽くすためといわれています。
②昔、下新宿で布教をしていた人が行き倒れになりました。その人は仏像を所持していましたが、下新宿にはすでに神社があったので、本行徳一丁目の神社にまつられました。そのため、祭礼のときには下新宿にあいさつに行くようになりました。ある年、このあいさつをせずに祭りを行ったところ、疫病が流行りました。これはあいさつに行かなかった祟りによるものだといわれ、以来、下新宿への渡御を欠かさなくなったと伝えられています。
※同じ「行き倒れ」説でも、「下新宿で行き倒れになった人を弔うために毎年下新宿に行っていた」という説もあります。「行かなかった年に疫病が流行ったため、欠かさずあいさつに行くようになった」という部分は共通しています。
③昔、下新宿の生花店手前の裏庭に、朽ち果てた小さな祠がありました。当時の下新宿は戸数も少なく、祠の建て替えもままならなかったため、本行徳一丁目の人たちが現在の神明(豊受)神社のところに社を建て、祠の何かを御神体とし、地域の氏神様としました。そのため、大祭のときには下新宿にお参りに行き、下新宿側も地境で丁重に出迎えるのだと伝えられています。
このほか、下新宿の宮大工が神輿を作ったから、あいさつをしに行くという説もあるそうです。
このうち②③の説については、矛盾点を指摘する声もあります。 投稿ページに記しましたので、併せてご覧ください。 |