㈲中台製作所会長の中䑓實さんが11月29日午前7時38分、急性心疾患のため亡くなられました。86歳でした。
中䑓實さんは、中䑓家へ婿入りする形で義父新太郎さんから行徳神輿「中台祐信」の雅号を受け継ぎ、神輿師として数多くの神輿を製作。昭和60年に千葉県指定伝統的工芸品に行徳神輿の製作者として指定されたほか、平成12年度には千葉県の卓越した技能者(千葉県の名工)として表彰されるなど、広くその功績が認められました。
また現住所(市川市本塩)に工場を建設し、法人設立して現在の中台製作所を築き上げたほか、仏壇や寺院用具、線香の販売なども手掛け、グループ会社として仏壇店や葬儀会社を設立するなど実業家としても手腕をふるいました。
仕事以外においても、市川市立第七中学校・千葉県立市川工業高等学校のPTA会長や、市川市本行徳三丁目自治会長、千葉県指定伝統的工芸会会長、市川青色申告会会長を務めるなど、さまざまな分野で活躍・貢献されました。
12月4日㈬と5日㈭に徳願寺会館(市川市本行徳)で社葬が行われ、合わせて1200人が参列しました。喪主は次男で社長の洋さん。葬儀委員長は田中甲市川市長。
通夜(12月4日)
12月とは思えない暖かさとなった4日㈬、しめやかに通夜が行われました。
行徳出身で實さんとも親交の深かった田中市長が葬儀委員長を務め、市内で名だたる方々が参列していた通夜は、さながら市葬のようで、通夜だけで1000人もの人が訪れたそうです。
行徳各町の神輿のもみ手たちが案内係などをサポートし、一丸となって中台製作所を支えようとしている姿も大変印象的でした。
葬儀(12月5日)
翌5日㈭も暖かい一日でした。
ホール前には、行徳まつりなどでおなじみの中台祐信の神輿が飾られています。
ホールの内外には供花がびっしり。
その数、なんと230!だそうです。
平日にも関わらず、この日もたくさんの参列者が訪れました。
弔辞を述べたのは、行徳の文化の中心的人物であり、實さんと同級生だった田中愛子さんです。
愛子さんは、子どものころの学校での思い出や、實さんが神輿師になった当時のエピソード、洋さんが他界した兄・顕一さんの心も引き継いで頑張っていることなどに触れ、「素晴らしい人生でしたね。これだけ多くの人が認めていますよ」と語りかけました。また最後に「行徳の神輿文化と祭礼」が市川市の無形民俗文化財指定されたことを「ぜひあなたに伝えたかった」と報告。優しくて心温まる素晴らしい弔辞でした。
続いて田中市長が葬儀委員長あいさつとして、實さんがさまざまな会の会長を務めたことに触れ「人づくりができる方で、行徳を牽引したリーダーだった」と紹介。また實さんが長男・顕一さんを失ったときの憔悴ぶりから、まわりの支えにより前を向き中台製作所を設立するに至った話に触れ、「涙あり笑いあり、大きな拍手を受けて輝いた人生は立派なものだった」と称えました。最後に「これまで中䑓實にいただいたご厚情を、今後も変わらずお願いしたい」と話し締めくくりました。
喪主の洋さんは謝辞として、「会社をここまでにした功労者として、親父が最期のときはかっこよく送ってやろうと決めていた。人のために生きてきた人だった。多くの皆さんに送っていただいて幸せ」と話し、最後に「中䑓實の意思を継いで社員一丸となって守っていく。神輿のまち行徳を継承するために私の人生をかけてやっていく」と固い決意を述べました。
出棺の際は、實さんが好きだったという北島三郎の「まつり」が流れる中、實さんと親交のあった神輿のもみ手たちが、實さんの遺影をのせた神輿をもんで見送りました。
實さんについて神輿のもみ手たちは、「豪快な人で、もみ手を集めてよく面倒を見てくれた」と語りました。
「行徳まつりの前身の市民まつりが行われていたころ、打ち上げとして工場の前で大宴会を開き、会費を一切取らずにもみ手のみんなにラーメンやおでんなどをふるまってくれた」という思い出話も聞くことができました。
葬儀関係者の話では、葬儀当日参列された方以外にも、会場前で手を合わせていく方がたくさんいらっしゃったそうです。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
下のカテゴリをクリックすると、 同じカテゴリのすべてのブログ記事を閲覧できます。
また、その下のアイコンをクリックすると記事のシェアができます。
↓↓↓
コメントをお書きください
善福 河野 (日曜日, 08 12月 2024 22:03)
ご逝去の報に接し心からの
お悔やみを申し上げます。
地域のため、公共事業のため
尽くされた業績は誰もが忘れません。
安らかにお休みください。
わっしょい!行徳 (火曜日, 10 12月 2024 09:06)
偉大な方でしたね。
たくさんの方に見送られ、大変立派なお式でした。